2005年4月22日

検査予定日の決断の先には命。


先生に手術を見送ることを伝え、一ヵ月後にエコー、翌月にPET検査の予約を入れてもらった。PET検査は舌の手術から3ヵ月後になる。3ヶ月が今の私にはひどく長い。やっぱりもっと早くしてもらおうか、と毎日心配になる。しかし早く検査をすると、擬陽性を起こすと思われる炎症がおさまっていない場合がある。それでは擬陽性が証明できない。私が次回のPET検査で期待していることは私の首のリンパ節への淡い集積が炎症によるものだった。ということである。
本物の陽性だろうと、擬陽性だろうと、郭清手術を受けることが二人のお医者さん勧められたことなのである。それなのに、まだ粘る気でいる。私なりに粘る理由を見つけている。といってもそれはとても無謀なことなのかもしれない。私がバカなだけかもしれない。
「自分の病気を治すために、プロの患者になれ!」なんてことが本には書いてあるが、それは私の場合どうかと思う。下手に自分に都合のいい情報を集めて、医者の勧めにそっぽを向いている。それが命取りになるかもしれない。素直に先生のいうことをハイハイ聞いて手術を受けていれば、命が助かる確立は高いことに違いないのだ。頸部郭清術(首のリンパ節を取る手術)を受けた後の後遺症は普通の日常生活が送れなくなるほどのもの重い手術ではない。予防的手術は転移を起こし始めたら手をつけられない癌という病気にはとても重視すべき措置なのだ。それをわかっている。だけどそれで手術をすぐ選べないのはやっぱり私の性格なのだ。人それぞれ、重要な選択に違いがあることを改めて思う。
入院中、喉のあたりの癌の方と知り合った。その方は外科手術をするとまったく声を出せなくなってしまうそうで、声をあげて笑えないなんて嫌だというその奥さんは家族が手術を受けることを頼んだにもかかわらず、化学療法を選んだ。化学療法の治癒率については詳しくないが、その副作用の恐ろしさは知っているし、可能であれば外科手術が治療率は一番良いのではないかと思っていた私は、その経過を聞いたとき「声なんかより命を守ることのほうが大切でしょう?声を失っても家族は失わないし、家族と一緒に笑うことだってできるじゃない」と思った。しかし、それは当事者以外が思うことなのだ。本人ではないから、命第一で考えることができる。しかし、当事者となってみると、命より自分らしい生き方に目方がいってしまうのだ。

入院しているときに朝の診察で前に並んでいたお婆さんが首を手術していたようだった。私はそれがリンパ節郭清手術の傷かどうか聞きたくて(頸部郭清手術後の患者さんを見たことがない)思い切って声をかけたことがあった。
「失礼ですがどこを手術なさったんですか?」
おばあさんはかすれた声でのどを指差し「ここ」と答えてくれた。
「(手術した臓器は)なんていうところですか?」
ともう一度尋ねると、おばあさんは首を振って「わからない」と答えました。
そんな風に治療を進めていくことが本当は楽なんだと思った。先生におまかせして、あとは元気に退院。そんなのが本当はいいのかもしれない。